降りていく愛(ネリサラン내리사랑)
韓国語のことわざに「ネリサラン내리사랑」という言葉があります。直訳すると「降りていく愛」となります。これは「親の愛は、その恩があまりにも大きくて、親に返し切ることができないので、その愛を子どもたちに流していく。愛は下の世代へと降りていくものだ」という意味です。この言葉は韓国語の中でも、私が特に心にしみる言葉です。なぜなら、私は韓国人宣教師からその愛を受けた者だからです・・・・・・。
私を教会に初めて導いてくれたのは、同じ大学の同級生で韓国人のチョン・トゥルヨンさんでした。(彼は今、東京の八王子で牧師をしています。)私が韓国語を学びたいと言うので、彼が私を、韓国人留学生が集まっている東京の教会に誘ったのです。チョンさんは、私を誘う6か月も前から、私の救いのために祈るように教会のメンバーたちに頼んでいたので、みんなはずっと祈って待っていました。私が初めてその教会に行ったとき、みんながどんなに喜んで私を熱烈歓迎したか、そして私がどんなに愛されたか、想像できるでしょうか?私はそのとき、神様について何もわからなかったけど、彼らのただ中にある主の愛を肌で感じて、そのままイエス様を信じるようになりました。そのとき体験したイエス様の愛は、言葉で言い表すことができません。思い出すと、今でも涙が出そうになります。間もなくして、私は聖書のみことばを通してキリストによる救いの価値をさらに確信して、すぐ献身したいと思いました。その後、私を霊的に育ててくださったのは、その教会を導いておられた金玉姫(キム・オッキー)宣教師先生でした。金玉姫先生は母親のように、私のことを霊的息子と思って、心から愛してくださいました。ときには厳しく、そして強く訓練されました。今の私があるのは、先生の犠牲的な愛のおかげです。
・・・・・ずっと後になって金玉姫先生は、脳ガンで天に召されたという知らせを聞きました。宣教が困難な中で、日本のたましいの救いのために仕え、命をささげて、一粒の麦となられたのです。先生は命をかけて弟子を育てた、真の宣教師でした・・・・。
私はミャンマー宣教師となったとき、金玉姫先生のことをたびたび思い出しました。先生が受けた困難に比べたら、私の苦しみは何でもありません。自分が宣教師になって初めて、先生の気持ちが分かりました。先生は私のような反抗児を、よくもまあ忍耐して育ててくださったなあと思います。先生に恩返ししようとしても、先生はもう天国におられるので、できません。だから、私はその無条件に受けた主の愛を、今度は宣教地にいるたましいたちに流していく、ただそれだけです。キリストは私のために、いのちを捨てて愛しました。だから、私も宣教地の兄弟たちのためにいのちをささげるのは、当然のことなのです。それこそが宣教だと信じます。
(第1ヨハネ3:16)キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
(マタイ10:8)あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。
私は宣教の途中で、あきらめたくなることが何度もありました。その度に、天国で金玉姫先生が、いつものあの声で「伊藤、しっかりしなさい!」と叱るのが、心に聞こえてくるような気がするのです。ここで私が宣教を辞めたら、天国で先生はどんなに悲しむか。天国で多くの証人たちが、雲のように取り巻いて私を応援しているのだから、ここであきらめてはいけない。最後まで忍耐をもって走り続けよう。そう思って、再び立ち上がるのです。
・・・・宣教は「降りていく愛」です。主よ。どうか私が、無条件で受けたこの主の愛を、宣教地にいる次世代へとバトンタッチしていくことができますように。そして天国に凱旋するその日まで、最後まで走り抜く者としてください。

大学3年生の私と、私を教会に誘ってくれたチョン・トゥルヨンさん(左)。

私を育ててくださった金玉姫(キム・オッキー)先生(左)。私の大学卒業式に。
