真理が平和を作り出す
1,序論
私は色々な考えを持つ人と話すことがありますが、話題が宗教のことになると、このように言う人が結構います。「世の中には色々な宗教があって、みんな良いことを言っているのだから、お互いに認め合って、平和共存していくことが大切ですね。」つまり「どの宗教も良いのだから、これだけが絶対正しい、というものはない」という考えです。これに対して「絶対的真理は存在する」と言う人もいます。あなたはどうですか?
2,相対主義の主張
「どの宗教、考え、価値観、主義主張も、それぞれ一理あるのだから、互いに寛容であるべきだ」という考え方を「相対主義」と言います。相対主義の主張は、以下のようなものです。
「真理というのは、その人がそう信じるときに真理となる。人にはそれぞれ考え方がある。もしある人が一つの宗教を信じるなら、それはその人にとって真理である。」
「どの国、民族、人々、時代にも共通の絶対的真理、というものは存在しない。それぞれの人が、それぞれ自分が正しいと信じるものを選べば良い。」
「どの宗教も結局は同じだ。『同じ高嶺の月を見るかな』だ。同じものを見ても、それぞれ違った角度から見ているのであって、どれも正しい。」
「宗教も神も、人間の心が作り出したものだ。」
「だから、これ一つだけが真理だ、というのは、排他的で、狭い考え方だ。ある人が信じることを、他の人が否定してはいけない。また、ある人が一つの宗教を信じるのは結構なことだけど、それを他人に押し付けてはいけない。」
「『和をもって貴しとなす』だ。宗教どうしも、互いに違いを認め合って、受け入れ合うべきだ。そうするときに、世界は平和共存できるようになるのだ。」
3,相対主義の問題点
このような相対主義の主張は、一見もっともらしく聞こえますが、以下のような問題点があります。
(1)全く相反する考えを「どちらも正しい」とするのは、矛盾であって、ありえないことです。例えば、ある人は「神はいる」と言って、ある人は「神はいない」と言います。ある人は「神は唯一である」と言って、ある人は「神はたくさんいる」と言います。どちらも正しい、ということはありえません。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのです。
(2)相対主義は一見寛容なようですが、実は「絶対的真理は存在する」という考え方を否定しているのです。「どの考え方も良いものだから、互いに受け入れ合うべきだ」と言いながら、一つの考え方を排除しているのは、矛盾です。相対主義という考え方自体が、一つの強力で排他的な価値観であり、「宗教」なのです。
(3)「どれも正しいのだから、それぞれが好きなものを選べばよい」という考え方でいくと、結局はどれが正しいのかわからなくなります。善悪の基準も、それぞれの人が決めるとしたら、善悪は状況に左右され、何をしても構わないことになります。「何が正しいか」よりも「どうすれば快適か、自分にとって損か得か、法に触れないか」を考えるようになります。ある人が「自分が生きるためには、他人の犠牲も必要だ」と考えるなら、盗みでも殺人でもするようになります。絶対的な基準がないので、悪に対処する抵抗力がありません。凶悪犯罪事件が増えて、社会不安になります。個人も社会も倫理道徳的に腐敗し、堕落していきます。
(4)相対主義の社会では、「自分は何をしたらいいのかわからない」という人が増えます。個人の自己実現を追求しますが、それには終わりがなく、むなしくなります。人々はどんどん孤独になり、家族関係は疎遠になり、社会はバラバラになって、混乱していきます。
(5)相対主義では、真理を求めるより、「和」を求めます。争いを避け、妥協点を求めます。自分を主張せず、他人に合わせることが優先されます。しかし、どの点で一致していいのかわからないので、多数決に流されていきます。結局は多数者が少数者を支配し、抑圧につながっていきます。真理なき一致は、もろくてくずれやすく、結局は争いを生むのです。
(6)世の中には、全く犯罪的な宗教集団、暴力的な過激団体もあります。「どの考えも正しい」というなら、彼らの反社会的行動をも認めなければならなくなります。どこまでが正しく、どこまでが悪いという基準も決められません。多数決でそれを決めるとしたら、みんなの考えが変わればその基準もいつも変わることになります。
(7)相対主義では、「世の中で多くの人が言っていることが正しいことだ」と思います。「みんながそうしているのだから、自分もそうすればいい」と言って、自分で何が善で何が悪か、考えなくなっていきます。また、多くの人が言っていることに反対して、孤立し、迫害されることを恐れます。ヒトラーのような、ある雄弁なリーダーが強力な主張をすると、大衆は秩序と安定を求めて、それをそのまま考えずに受け入れてしまいます。大衆心理は、情報操作によって移ろいやすいものです。20世紀に相対主義が広がった後、全体主義や、残虐な独裁政治が次々と台頭したのは、このためです。
(8)このように相対主義は、その考え方自体が多くの問題を抱えています。この考え方は、真理を見失い、人々に不安と混乱をもたらし、平和共存どころか、互いの対立を引き起こすものなのです。
4,真理を知るには
それでは、相対主義ではないとしたら、絶対的真理というものは、本当に存在するのでしょうか? 存在するとしても、色々な考え方の中で、どれが本当に正しいと見分けることができるのでしょう? 一体どうすれば、その本当の真理を知ることができるのでしょうか?
(1)真理というものは、絶対的、普遍的、永続的、客観的、合理的なものでなければなりません。どの国、民族、文化、人々、時代に対しても通じるものであり、拘束力があるものです。その絶対的真理は、もし仮に、この地球上でそれを信じる人が誰一人いなくても、真理です。それが事実に即しているゆえに、真理なのです。
(2)そのような絶対的真理を知るための出発点を、「人間」から始めたとしたら、それにたどり着くことができるでしょうか? 人間の知性には、限界があります。人間の小さな頭脳でいくら考えても、この広大な宇宙の真理の全てを知り尽くすことはできません。また、人間の心の中の悟りを出発点とするなら、人間の考え方はみんな一人一人違うので、みんなが違ったことを言って、どれが正しいのか決められなくなります。限界のある人間が、いくら一生懸命考えて、努力して、修行して、真理を探究しても、「絶対的」真理に到達することはできないのです。
(3)これに対して、真理を知るための出発点を「啓示」に置いたらどうでしょうか?この宇宙の創造主を出発点として、その方が人間に真理を啓示してくれるとしたら、どうでしょうか?創造主は、この宇宙の全てを造った方、その全てを支配している方で、宇宙の始まりから終わりまで、全てを知っている方です。その知恵は完全で、その力は無限です。なので、この宇宙の絶対的真理を知っているのです。この唯一絶対の創造主なる神が存在するゆえに、唯一絶対の真理も存在するのです。この創造主が知らせてくれるのでなければ、人間はその真理を知ることはできません。
(4)しかし創造主は、その真理を啓示して下さったので、人間は真理を知ることができます。では、どうやって啓示したのでしょうか? それは「聖書」を通してです。聖書は創造主なる神のことばであって、この宇宙の創造と終末、人間の生きる道と目的について書かれています。それは全ての人間が理解できるように、人間のことばで書かれているのです。この聖書を読み、学ぶことによって、人間は創造主なる神を知ることができます。創造主を知るときに、人間は真理を知ることができるのです。完全に知り尽くすことはできないにしても、聖書の啓示を通して、啓示の中で知らされた範囲の中で、知ることができます。聖書を読み、創造主を知ることによってのみ、人間は絶対的真理と出会えるのです。
5,聖書の主張
では、その聖書の中には、何が書かれているのでしょうか? 創造主の啓示である聖書は、絶対的真理について何と言っているのでしょうか? 以下に、その中の一部の個所を引用して、解説していきます。
(創世記1:1)初めに、神が天と地を創造した。
(解説)神は、初めから存在しているお方、永遠に生きておられる方、唯一の創造主です。この神が、宇宙の全て、時間と空間、霊と物質、いっさいのものを無から創造されました。人間も、宇宙も、自然も、動物も、全てのものは、神の被造物です。被造物は、永続するものではなく、限界があります。だから、人間や自然、金や石で作ったものは、神ではありえません。人間が神を造ったのではなく、神が人間を造ったのです。天と地を造られた創造主、永遠の神こそ、唯一の本当の神です。
(ローマ3:23)すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず
(ローマ6:23)罪から来る報酬は死です。
(解説)しかし人間は、この神を信じないで、神に背き、神に対して罪を犯しました。罪を犯したことがない人間は一人もいません。どんなに努力して良いことをしても、自分の罪を消すことはできません。この罪のゆえに全ての人間は死んで、永遠の滅びである地獄に行かなければなりません。
(ヨハネ3:16)神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(解説)しかし、神の御子、救い主イエス・キリストが天から来て人間となり、私たちの罪のために十字架にかかって、身代わりとなって死んで下さいました。そして、3日目に復活して、罪と死に勝利しました。なので、このイエス・キリストを信じる者は、罪赦されて、地獄に行くことなく、永遠の祝福である天国に行けます。神は私たち人間を愛されたので、私たちに救いの道を与えて下さったのです。これが福音、良い知らせです。
(ヨハネ14:6)イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできません。」
(解説)イエス・キリストご自身が、天国への救いの道であり、真理そのものであり、永遠のいのちです。イエス・キリストは、宗教を教えたのではなく、ご自身が真理であると言われたのです。宗教の教えではなくて、キリストそのものが救いなのです。このキリストを信じなければ、だれひとり天国に行くことはできません。キリストだけが、天国への唯一の道です。
(ヨハネ8:32)あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
(解説)人間をおきてによってしばりつける偽りの宗教は、自由を与えることはできません。しかし、本当の真理というのは、人間に自由を与えるものです。この真理とは、イエス・キリストのことです。キリストを信じて受け入れるときに、罪が赦され、死と地獄とのろいの恐怖から解放され、本当の自由を体験することができます。
(使徒4:12)この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。
(解説)イエス・キリスト以外には、どんな人間によっても、救いはありません。全世界のどんな宗教・倫理道徳・哲学理論・主義主張であっても、どんなに偉い立派な人物・宗教指導者であっても、罪と死と地獄とサタンから、人間を救うことはできません。ただイエス・キリストの御名だけが、私たちが救われるべき唯一の名として、人間に与えられているのです。
(Ⅰコリント8:4-6)私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
(解説)世の中には多くの神々と呼ばれるものがありますが、それらはみな偶像であり、人間の想像の産物で、実際にはないものです。唯一の本当の神以外には、神は存在しません。全世界の全てのものはこの神によって創造されて、この神のために存在しているのです。私たち人間も、この神によって造られたので、神のために生きるのです。
(Ⅰテモテ2:4,5)神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
(解説)この創造主なる唯一の神は、全ての人間が、真理なるイエス・キリストを知って、救われて天国に行くことを望んでおられます。ひとりでも滅びて、地獄に行くことを願っていません。だからこそ、神の御子イエス・キリストが約2000年前に人間となって、この世に来られたのです。このキリストだけが、神と人間との間の仲介者、和解の橋渡しをして下さる唯一の方です。
(Ⅰヨハネ4:1-3)愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。
(解説)世の中には色々な霊的な現象があります。しかし、それに驚いて、すぐに何でも信じるのではなく、よく見分けなければなりません。にせ宗教集団や、にせ教師、サタンや悪霊の力によって奇跡を行う人もたくさんいるからです。イエス・キリストを唯一の救い主として認めない霊は、反キリストの霊であって、悪霊によるものです。しかし、イエスを告白する霊はみな、本当の神から出たものです。それによって、本物と偽りを見分けることができます。イエス・キリストが、全ての真理の基準です。
(Ⅱペテロ1:20,21)聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊によって動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
(解説)聖書は、人間の自分勝手な考えや想像や悟りによって書かれたのではありません。聖書は神のことばであって、神の霊によって動かされた人たちが、神の啓示によって教えられたとおりに書きました。だから、聖書の言葉を自分勝手に解釈してはいけません。聖書の文脈に沿って、本当の著者である聖霊の意図したとおりに理解すべきです。聖書のことばは全て真実で、信じるに値するものです。聖書の中の預言は、今まで全て成就して来ました。なので、これから起こると預言されていることも、本当に起こると信じてよいのです。
(Ⅱテサロニケ1:7-10)そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
(へブル9:27)人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
(解説)主イエス・キリストは、再びこの地に来られると約束しました。その再臨の日がいつなのかは、誰も知りません。神だけがご存知です。主の約束は必ず実現します。その日は確実に近づいています。その終わりの日には、主イエスは王の王として天から下って来られて、この世界を火によって焼き滅ぼされます。最後の審判の時には、全ての人間は神の御前に立たされて、自分の行いに応じてさばかれます。そのとき、主イエスを信じないで従わなかった人々は、罪の赦しを受けていないので、自分の罪のゆえに、永遠の滅びの刑罰である地獄に行くことになるのです。
・・・・ある人が「神はいる」と信じて生きていて、死後にそれが仮に間違いだとわかっても、その人にとってそれほど損はありません。しかし、「神はいない」と思って生きていて、死後に実は神がいるとわかったら、その時はもう手遅れです。地獄の火の中で、後悔しながら永遠に苦しむことになります。
(黙示録21:3-5)そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
(解説)しかし、主イエスを信じて罪の赦しを得た人々は、天国で永遠に生きることができます。天国は、王なる主イエスの治める王国だから、イエスを王、主人として受け入れる人だけが入れるのです。そこには、死もなく、悲しみも苦しみもありません。喜びと平安、賛美の中で、主と共にいつまでも住むのです。
6,他宗教の人とどう接するか
それでは、イエス・キリストを信じて聖書のみことばに従って生きる人は、他の宗教、他の考えを持つ人々とどう接するのでしょうか? 絶対的真理を知っているからといって、他宗教の人を見下したり、排撃したりするでしょうか? いいえ、そんなことはありませんし、してもいけません。他の人を愛し、受け入れるべきです。なぜなら、聖書にそうするように命じられているからです。聖書にこう書いてあります。
「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:39)
(1)全ての人は神によって造られた、大切な存在です。神は天の父であり、私たち人間は神の子どもたち、兄弟姉妹です。神は全ての人を愛しておられます。そして人間が互いに愛し合うように願っています。だから、同じ宗教、民族、グループの人だけ愛するのではありません。どんなに違う人であっても、その人を愛し、尊重して、その存在を受け入れるべきです。
(2)他の人を愛する、というのは、その人の存在そのもの、その人のたましいを愛する、という意味です。その人の考えや行動を愛すべき、というのではありません。神は人間を愛しますが、人間の心に持つ悪い考えや罪ある行動まで愛するのではありません。それはちょうど、親は子どもを愛するけど、子どもがする罪を憎んで、それを正していくのと同じです。また、もしある人が、ある目的地に行くのに、道に迷っていたり、間違った道に行っていたりするのを見たら、あなたはどうするでしょうか?その人に「正しい道はこっちですよ」と教えるのが当然ではないでしょうか?あなたがその正しい道を知っているなら、それは当然の義務です。知っていながら教えなかったら、罪を問われるでしょう。「あなたがその道を正しいと思うなら、どうぞ行って下さい。どの道でも良いですから」とは、決して言わないでしょう。もちろん、どの道を選ぶかはその本人が決めるのですから、強制はできません。しかし、正しい道に行くように願い、勧めるのは、押しつけでも、排他的でも、他者否定でもありません。その人への親切であり、愛です。その人のことを愛するからこそ、正しい道に行ってほしいと願い、教えるのです。
(3)それと同じように、主イエスを信じてそれに従う人は、聖書の真理を他の人に伝えます。ことばを通して、キリストの愛を知らせて、行動を通して、キリストの愛を実践します。そして、その人も真理を知って自由になり、救いを得るように願い、祈ります。だから、教えるときに「あなたは間違っている」というような、上から頭ごなしに否定するようなことはしません。その人を尊重する態度をもって「聖書はこう言っていますよ」と伝えるだけです。また、たとえその人がキリストを信じないとしても、その人を憎んだり、無視したり、否定したりしません。信じるかどうかは、その人の自由です。ただ、その人が神の愛を受け入れて、キリストを信じ、地獄に行かないで、天国に行けるように願います。そして、友人として接し続け、その人の救いのために祈り続けます。なぜなら、その人を愛するからです。
(4)それでも、あなたはこう思うかもしれません。「ではなぜ、キリスト教国が戦争したり、クリスチャンが他宗教の人と対立したりするのですか?」その通りですね。もっともな意見です。確かに、そのような戦争や対立は、間違っています。しかしそれは、宗教のせいというよりは、人間の罪によるのです。宗教による戦争と言っても、人間が宗教の名を利用して、自分を正当化し、他者を攻撃している場合がほとんどです。聖書の中にこう書いてあります。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(ヤコブ4:1-2)
聖書では、他の人を愛して受け入れるように命令しています。それなのに、その命令を守らない人は、罪に定められます。まして、クリスチャンだというのに、聖書の命令を知っていながらそれに従わないなら、もっと罪が重いと言えるでしょう。しかしその場合、守らないその人に罪があるのであって、聖書や神に罪があるのではありません。
(5)例えば、警官が盗みをしたら、どうなるでしょう。その警官は、一般の人よりも厳しく責められるでしょう。警官は正しくあるべきだからです。でも、だからと言って「警察制度全体が間違っている」とは言いません。悪いのは、盗みをしたその警官です。もちろん、その一人のせいで、他の警官全員が恥ずかしい思いをするでしょう。しかし、だからと言って、警察全部が悪い、ということではないのです。これと同じように、あるクリスチャンが罪を犯すからと言って、「キリスト教は間違っている」と言うことはできないのです。
(6)クリスチャンの一部の人が、他の人と争いをしているのを聞くと、私も心が痛みます。それ以上に、神は天から見て、もっと悲しんでいます。平和を一番願っているのは、神ご自身です。そしてその神の御心を知る私たちが、この地に真の平和を作り出すために、努力していかなければならないのです。
7,平和を作り出す人になるには
(1)では、この世界に平和を作り出すには、どうしたら良いでしょうか。それにはまず、私たちが平和を作り出す人にならなければなりません。あなたが平和を作る人になるには、あなた自身の心の中に平和を持っていなければなりません。互いに愛し合う世界を作りたいなら、まずあなたの心に絶対的な愛がなければなりません。正しい世の中にしたいなら、まずあなたの生活に正義がなければならないのです。
(2)では、そのような平和や愛、正義を心に持つには、どうしたら良いのでしょうか。どうすれば、平和と愛と正義に満ちた人間になることができるのでしょう。それは、平和と愛と正義の源泉である、神を信じることです。神を信じるときに、神の力によって、自分が変えられるのです。罪深い私たち人間は、自分の力で自分の罪の心を洗うことができません。他人を完全に愛することもできません。どうしても他人をさばいたり、争ったり、赦せなかったり、憎んだりしてしまいます。なぜなら、私たちは生まれながら、みな罪人だからです。しかし、そのような私たちのために、救い主イエス・キリストはこの地に来て、十字架にかかって、私たちの罪の罰を代わりに受けて下さいました。私たちを罪と地獄から救うために、自分の命を投げ出して、犠牲となったのです。それは、私たち人間一人一人を愛するゆえです。それだけではありません。イエス・キリストは、死んで葬られた後、3日目に墓の中から復活しました。それによって、人間を不幸に落とし入れる罪と死とサタンに勝利して、その問題を根本的に解決して下さったのです。この救い主イエス・キリストを信じて、心の中に受け入れる人は、永遠のいのちが与えられ、天国に行けます。キリストの愛と平和と正義が、心にあふれて来るようになります。そして、神の真理に堅く立ち、他の人をもその真理へと導く人へと変えられるのです。
(3)他の宗教、考え、民族、グループの人々を愛するには、どうしたら良いでしょうか。そのような広い愛、無条件の愛、忍耐強い愛、普遍的な愛を貫くには、強い信念と確固たる意志が必要です。まず自分自身が、真理の土台の上にしっかり立たなければなりません。そうしてこそ、確信をもって他の人を愛して受け入れることができます。創造主なる神を信じ、その教えに従い、その愛に満たされた信仰者が、その普遍愛を実行することができます。神の絶対的真理に堅く立つ人こそが、平和を作り出す人、Peace Makerとなれるのです。聖書にはこう書いてあります。
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)
(4)歴史的に見ても、平和を作り出した人の中には、クリスチャンがたくさんいたことがわかります。
リンカーンは、神の前に全ての人は平等であるという信仰に堅く立って、内戦となってもその信念を貫き、奴隷解放を宣言しました。
アンリ・デュナンは、神の博愛精神に基づいて、敵味方の区別なく人々を救助する赤十字を作りました。
ナイチンゲールは、神の愛をもって看護師となり、献身的に負傷者を看護して、「ランプの天使」と呼ばれました。
シュバイツアーは、神の愛を伝えるために、医者としてアフリカに行き、黒人たちのためにつくして、「密林の聖者」と呼ばれました。
マザー・テレサは、神の声を聞いて、インドの最も貧しい人々を救うために一生をささげました。
キング牧師は、神への信仰に立って、黒人への差別をなくすために、非暴力でねばり強く戦い、公民権法の実現を勝ち取りました。
・・・・・これらの人々は、唯一絶対の創造主なる神を堅く信じたからこそ、他の人々を強く愛し続けることができました。そして、不義や不正と忍耐強く戦い、平和を勝ち取っていったのです。絶対的真理への信仰が、真の平和を作り出したのです。「真理が平和を作り出す」のです。
8,私自身の体験
私は大学生のとき、国際交流活動のサークルに入っていました。アジアからの留学生と友達となって、文化紹介をしたり、料理会をしたりして、とても楽しかったです。でも、話題が政治や歴史のことになると、どうしても一つになれず、限界を感じていました。そんなとき、その留学生の一人が、私をキリスト教会に誘いました。私は全くの無宗教だったので、私のような者が教会に行って良いものかと迷いました。でも「これも社会経験だ」と思って、思い切って行って見ることにしました。行って見たら、教会のみんなはとてもやさしくて、温かい人たちでした。何もない私をそのままで受け入れ、愛してくれました。そして、みんなは国や民族の違いを超えて、互いに愛し合い、家族のように一つになっていました。私は色々なサークルや団体に入ったことがありますが、このような愛を感じたのは初めてでした。頭ではわかりませんでしたが、心で「ここには私が求めていた何かがある」と感じました。それで、それがわかるまで、とにかく通ってみようと思いました。彼らと一緒に聖書を読み、賛美歌を歌い、祈り合ううちに、だんだんわかってきました。これは単なる人間的な愛ではなくて、神様から来る愛なのだと。間もなくして、私はイエス・キリストを信じ受け入れて、洗礼を受け、クリスチャンになりました。私が20歳のときでした。
キリストを信じてから、私の人生は変わりました。私を造った本当の神様が、この私を愛して下さる、ということがわかって、うれしくてうれしくてたまりませんでした。心の中が、キリストの愛と救いの喜びでいっぱいになりました。それからは、自分と違う人たち、今までなかなか愛せなかった人たちのことも、少しずつ愛することができるようになりました。自分の力では愛せなくても、まずはその人の救いのために祈るとき、心の平安が回復しました。そして神様が私に、他人を愛する力を与えて下さるのを体験しました。
・・・・・それから約10年たった30歳の時、私はミャンマーに行きました。ミャンマーは90%以上の人が仏教徒です。でも私は、違う宗教の人とも友達になれます。私はミャンマーの人たちを心から愛しています。そして彼らに、唯一の真理であるイエス・キリストの愛を宣べ伝えているのです。それは、彼らが私の愛する友だからです。愛するからこそ、この真理を知らせて、一緒にこの心の平和を共有したいのです。
9,結論
これを読んでいるあなたに、あなたを愛する友として、私はお願いします。どうかこの救い主イエス・キリストを信じて、心に受け入れて下さい。そうするときに、あなたは真理によって自由となり、心の平和を体験して、平和を作り出す人へと変えられます。
伊藤 仁
