宣教は大変?

以前、ある日本の牧師先生と話をしていたときのことです。その先生は私に「宣教なんて大変だよね~」と言いました。「飛行機で何時間もかかる、お金もかかる、外国での食事、衛生、暑さ、言葉の違い、治安の悪さ・・・・全部大変だ。私にはとてもじゃないけど、できませんね~」と言うのです。それで私が「そんなことないですよ。住めば都で、行けば主に守られて、祝福がありますよ」と、いくら説明しても、彼は「大変だ大変だ」をくり返すばかりでした。私は、がっかりしてしまいました。

後で一人になったとき、私はさっきの会話を思い出して、気づいたことが一つありました。それは「その先生には宣教のビジョンがないから、全てが大変に思えるのだ」ということです。もしビジョンがないのに、宣教地で苦労ばかりしていたら、それは本当に大変でしょう。全部が犠牲、重荷、義務、イヤイヤ、しかたないけどやらなければならないもの、と感じるでしょう。そんなふうに考えていたら、当然宣教に行く気にはならないでしょう。

 しかし、もし宣教がその人のビジョンだったら、どうでしょうか?宣教がビジョンだったら、どんな困難があっても、それはその人にとって、乗り越えるべき課題、克服すべきチャレンジとなります。もちろん大変かもしれませんが、それでイヤだからやめる、とはならないのです。現地に適応すること、新しい言語を習得すること、迫害の中で伝道することさえ、情熱となり、喜びとなります。なぜなら、そのときの困難だけを見るのではなく、その先にあるビジョン実現の希望を見続けているからです。これがビジョンのある人の強みであり、力なのです。

 宣教に出るとき、もちろん大変なことはたくさんあります。現実の問題を直視して、考えることも必要です。しかし、宣教について話すときに、その大変さばかり言わないでください。その先にある希望、可能性、神の栄光のビジョンを語ってください。そのとき、宣教は喜びとなり、祝福となります。

私もミャンマーで、大変なことが「たくさん」ありました。ビザを取ること、子どもが5か月の赤ちゃんのときに一緒に連れて行ったこと、40度を超す暑さで寝られなかったこと、伝道しても中々救われる人が起こされなかったこと、お金がなくて帰国するべきか迷ったこと、教会から理解してもらえなくてつらかったこと、孤独、無力感、あせり、落胆、将来への不安・・・・・・。やめようと思ったことが何度もありました。

でも、大変なことがある度に、私は神の奇跡的な助けを何度も体験しました。大変さの中で、神様の愛と真実さを知りました。そして、神様はいつも御言葉をもってビジョンを回復させ、私に希望を与えてくださいました。だからこそ、あの困難の中でも途中であきらめないで、今まで続けて来ることができたのです。私が今、宣教しているのは、主のビジョンのおかげなのです。

 あなたにとって「宣教」とは何ですか?ただの大変な義務ですか?それともビジョンですか? ・・・・・ビジョンをもって宣教を見てください。どんな大変な中にあっても、信仰をもってビジョンを見続けて、それを宣言してください。そうすれば、神のビジョンがあなたの人生の上に実現します。

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